消えた浮標




お目汚し、失礼いたします。



JR大阪駅の近く、御堂筋沿いに有ったA宝石店は
私にとって思い入れのある店でございました。
店舗は、ギリシアの神殿を思わせるような
エキゾチックで風格のある造りでございまして
夜にはその神殿の柱の部分に照明が灯る美しい建物でございます。
ショーウインドウには穏やかで気品のある宝石たちが
麗しい光を湛えておりました。



若い頃、この宝石店がある界隈やその周辺には
週末の会社帰りにときどき一人でぶらついたものでございます。
JR大阪駅ビル内の丼屋や近くの商店街の中にあるラーメン屋で食事を済ませ
映画やゲーセン、パチンコに行くのがお決まりのコースでございました。



A宝石店の前を通りがかるたびに、なぜか私はその店の姿に惹きつけられ
婚約者に指輪をプレゼントするならこの店だと決めておりました。
しかし結局その思いが遂げられぬまま、この宝石店は閉店してしまったのでございます。
先日、その宝石店の前を車で通りかかったとき、そのことを知りました。
最近、その界隈からは足が遠のいていたため
もう閉店してからかなりの日数が経っていたようでございまして
何やらさびしい限りでございます。



思えば週末に夜の街を一人で彷徨しながらも
そこに揺らめく毒々しい夜光虫に手を出して身を持ち崩すようなことが無かったのは
いつもこの宝石店が私をつなぎとめる「 ブイ 」すなわち浮標の役目を
果たしてくれたからだったような気がいたします。
でなければ今頃私は、勘違いをして手当たり次第に遊び回り
調子に乗って夜の街でブイブイ言わせているうちに
ある日突然、大阪湾の藻屑と化してしまっていたでしょう。



かつて私をつなぎとめていたあのブイはもはや存在いたしません。
そしてあの宝石店の前を通るたびに胸を高鳴らせながら夢見ていた頃から
もうすでに30年近くの歳月が過ぎ去り、私もそれなりに年をとってしまいました。
夜の海に浮かんでいたブイは沈み、今私の前に広がっているのは黒々とした海面ばかり。
今はただ月の無い暗い砂浜で、夜光虫もいない海が奏でるさざ波の音に耳を澄ませながら
自らが砂と化すのを静かに待つばかりなのでございます.....






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