言葉の重み




お目汚し、失礼いたします。



本日8月15日は終戦記念日でございます。
私が小学生高学年だったとき、私のクラスの担任の教師は
「 敗戦記念日 」という名称でないのは
戦争に負けたわけではないという意識があるからだ
というようなことを申しておりました。



そして、先の大戦において諸外国に多大な迷惑をかけたことを
心から反省しているのなら「 終戦記念日 」ではなく
「 敗戦記念日」にするべきだというのでございます。
そういう名称にすることによって
あの大戦における戦争責任が日本にあるということを
明確にしろということなのでございましょう。



当時は私もその教師の言葉を鵜呑みにして
そういう名称であるべきだという思いがいたしました。
そして「 終戦記念日 」という名称にすることによって
戦争責任をはぐらかそうとしたり
まだ負けたわけじゃない、スキあらばリベンジしてやると
再軍備のチャンスを虎視眈々と狙っている勢力があって
「 終戦記念日 」というのはそういう勢力におもねったものなのだ
実にけしからんと憤慨していたものでございます。



しかし言葉というものにはそれなりの重みがございます。
「 敗戦記念日 」という名称が
あの戦争をリアルタイムで体験した日本国民を
どんな気持ちにさせるかと考えると
やはりそういう名称は使うべきでないという気がいたしますし
「 敗戦記念日 」という名称を使うことによって
歪んだコンプレックスにとらわれた過激分子が
危険な民族主義の台頭をもたらすことになりましょう。



戦争という蛮行に手を染めてしまったことを
検証し反省するのはもちろん必要でございます。
しかしもっと大切なのは二度と手を染めないこと
そのような芽を摘み取っておくことなのでございます。



今日という日を「 終戦記念日 」という名称にした先人
戦後処理にたずさわった当時のこの国の指導者たちに
私は敬意を表したいと存じます。






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